みんなで協力することで仕事が復活! そして収益アップ!――宮城県漁業協同組合 七ヶ浜支所
宮城県中東部に位置し太平洋に面した七ヶ浜町では、1929(昭和4)年から海苔の養殖が始まりました。七ヶ浜は、寒流の「親潮」と暖流の「黒潮」がちょうどぶつかる栄養豊富な海が目の前に広がる、日本最北端の海苔の生産地。
最盛期の1960年代には、3,000世帯のうち海苔養殖業者は800軒を数えたそうです。
ライバルから協業へ
最盛期に800軒あった海苔養殖業者は、東日本大震災の直前には64軒となっていました。
宮城県漁業協同組合 七ヶ浜支所の課長・鈴木祥さんによると、当時の海苔養殖業者はそれぞれが個人経営者で、他の人たちは「同業のライバル会社」というような感覚だったと話します。良い海苔を作れば自分たちの商品だけ高くなることもあって、「自分の技術は企業秘密」として守っていたのだそうです。
鈴木祥さん
しかしそうした関係は、2011年の東日本大震災によって一変しました。
震災によって加工場や船はほぼ全壊、大々的な被害を受けたのです。個人で一からまた商売を始めるとなると、1億5,000万円~2億円ぐらい必要……。生き残るためには「協業」しかないという結論に達し、3~6人ずつグループをつくり協業経営を行うようになりました。
協業のコツは「分業化」にあった
とはいえ、震災前はずっとそれぞれが個人単位で養殖業を営んでいたため、野球に例えると4番バッターを9人並べた状態。個々にやり方が違う上、それぞれ我が強いので、最初はうまくいかなかったそうです。
例えば、ロープの結び方から加工場の換気、海苔を何度で仕上げるか、機械を何回まわすかなど、自分たちがずっと続けてきたやり方はなかなか変えられません。
しかし、国の補助金を活用するには「グループ化」が条件だったこともあり、生きるために「協業」を進めました。
具体的には、海苔の加工工程を「分業化」したことがうまくいった要因でした。最初に海苔を摘み取って、加工し、管理するという仕事を、震災前は一人で全て行っていましたが、それらを「分業」にして、それぞれの経験や知識を持ち寄ることでうまく回り始めたのだそうです。
協業によって生まれた「ブランド海苔」
東日本大震災後の「協業」により、分散していたノウハウが共有されたことで品質が向上し、七ヶ浜の海苔は以前より高い単価で取引されることになりました。
その結果、誕生したのがブランド海苔「親潮一番」。
通常、養殖用の海苔網1枚から800~1,000枚の海苔ができるところ、「親潮一番」の場合は短く摘み取るため、海苔網1枚から取れるのはわずか400枚ほど。生産量が半分となるので、なかなか採算も合わないのですが、「口溶けの良い甘い海苔を作ろう!」とブランド化を進めたのです。
「親潮一番」のブランド化によって収入もかなり上がり、最初はうまくいかなかった「協業」も、いまとなっては皆さん「協業化して良かった!」と言っているようです。
自分たちが作る製品の良さをしっかりと見極め、前面に押し出していく。ものづくりの原点を見た思いがします。
協業が生み出した希望と課題
このように協力して海苔を生産するようになったことで、思いがけない効果がありました。若い人たちが参入するようになってきたのです。
七ヶ浜支所では、これまで若者や県外の人たちが漁業に関わることが多くなかったそうです。しかし協業したことで、「求人」を出しやすくなり、また生産規模が大きくなったことで人手不足となり、採用につなげているのだそうです。
現在でも、漁業就業フェアなどで求人しており、年に1~2人ほどの新しい人が参入。「海が好き」「自由に・好きな時間に働ける」という理由で入ってくる人が多いそうです。
とはいえ、やはり後継者不足は深刻。平均年齢は60歳ぐらいとのことで、若い人がまだまだ少ないというのが課題だ、と鈴木さんは語ってくれました。
ご紹介した、宮城県漁業協同組合 七ヶ浜支所のお話から導き出す「WORK SHIFT」のヒントは・・・『みんなで協力することで仕事が復活! そして収益アップ!』でした。
不可抗力の自然災害をきっかけに、ライバル関係から「協力し合う仲間」へと変わった海苔漁師さんたちの働き方。他の業種でも参考になるところが大いにありそうです。
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