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一つひとつの出会いを力に変えて。車いすテニス・菅野浩二選手が挑戦し続ける原動力とは。

株式会社リクルート 公式note

20歳で車いすテニスと出会い、36歳でクァードクラス(男女混合・三肢以上に障がいのある選手が対象)に転向してから目覚ましい活躍を見せる菅野浩二さん。日本ランキング1位の座に着き、国際大会でも上位に名を連ねています。昨年の東京2020パラリンピック競技大会では、ダブルスで銅メダル、シングルスで4位という成績を残しました。

「支えてくれる人たちがいなければ、ここまで続けることはできませんでした」と語る菅野さん。厳しいトレーニングに耐え、より上を目指し続ける原動力はなんなのか、詳しく聞きました。

「#2021年の出会い」投稿キャンペーンと連動し、「出会い」をテーマにリクルートに所属するパラアスリートのインタビューをお届けします。背景にあるのは、「まだ、ここにない、出会い。」というリクルートが大切にしているメッセージ。 “さまざまな事業・サービスを通じて、まだ見ぬ可能性や希望、人や仕事、場所との出会いをお届けできたら”という思いが込められています。厳しいトレーニングやプレッシャー、葛藤を乗り越えて世界を舞台に活躍する選手たちのインタビューを通じて、新しい出会いに向けたきっかけや勇気をお届けできたら幸いです。

株式会社リクルート所属 株式会社リクルートオフィスサポート勤務
菅野浩二さん
1981年、埼玉県出身。株式会社リクルートオフィスサポートでリクルートが運営するウェブサイトの情報審査業務を担当。車いすテニス選手(クァードクラス)。高校1年生のとき交通事故で頸椎損傷し、20歳のときに車いすテニスに出会う。2016年、それまでの男子クラスからクァードクラスに転向。2018年の「BNP Paribas Open de France(フランス)」シングル(クアード)1位・ダブルス(クアード)3位を皮切りに、数々の大会で上位成績を収めている。東京2020パラリンピック競技大会では、混合ダブルス(諸石・菅野)銅メダル・混合シングルス4位。

菅野浩二さん

きっかけは、仲間から譲り受けた競技用車いすだった

──小さいころからスポーツが大好きだったそうですね。

菅野:小中学生のときはサッカーをやっていました。中学3年の夏休みにサッカー部を引退してからは、担任の先生がバスケットボール部の顧問だったこともあり、部活の練習に参加させてもらっていました。高校に入ったら、バスケ部に入りたいと思っていたからなんですよね。当時は、テニスには全く興味がなかったです(笑)。

──それは意外でした。高校1年生のときに交通事故で頸椎を損傷してしまったとのことですが……。

菅野:交通事故の記憶はほとんどないんです。気付いたら、病院で横になっていました。入院生活中も、あまり落ち込むことはありませんでした。もちろん、医師から「一生、車いすで生活しなければならない」と言われたときは悲しくなりましたけど、翌日には気持ちを切り替えていましたね。すでにリハビリに取り組んでいたので、今やれることに集中していました。

──その後、車いすテニスとはどのようにして出会ったのですか。

菅野:医師からのアドバイスで、障がい者支援施設や相談所などが併設されているリハビリテーションセンターに転院することになりました。ここでのリハビリ訓練の一つに体育の授業があり、さまざまな車いす競技を教えていただいたんです。車いすテニスの存在を知ったのは、このときでした。

車いす競技をするようになってから、リハビリ仲間の本間正広さんという方と知り合いました。本間さんは、リハビリしながら、車いすテニス活動にも本格的に取り組んでいる人でした。あるとき、本間さんが競技用車いすを買い替えることになって、古い競技用車いすを僕に譲ってくれたんです。

競技用車いすは、一般的に30〜40万円くらいする非常に高価なものです。当時、僕は10代でしたから、自分で買うことなど到底できませんでした。本間さんは、僕がリハビリセンターに一人でいる姿をよく見ていたそうで、気を遣ってくれたのだと思います。

それに加えて、僕と本間さんの障がいの状況が似ていたことも理由の一つだったかもしれません。競技用車いすは、障がいの状況によって細かい調整が必要です。でも、偶然、僕と本間さんで体の動かせる部位が近かったので、ほぼそのまま使うことができたんです。

──今振り返ると、運命的な出会い、流れのようにも見えますね。

菅野:そうですね。競技用車いすは、日常用の車いすと違って競技にしか使えませんので、基本的には乗らなくなったら廃棄するしかありません。その一方で、競技用車いすは高価だからという理由で競技をあきらめてしまう人がたくさんいるので、お互いの状況が合えば、古い車いすを譲る伝統のようなものがあるんです。僕も、本間さんに競技用車いすを譲っていただいたことが、車いすテニスに本格的に取り組むきっかけとなりました。

支えてくれる人たちがいなかったら、続けることはできなかった

──車いすテニスは一般のテニスとルールがほとんど変わらず、コートの広さやボールの大きさも同じとのことですが、初めてプレーしたときの感想を教えてください。

菅野:野球みたいにボールを「打って」いました。テニスは、ボールをいかにコントロールして規定のエリア内に入れるかという競技ですが、僕はとにかく全力でボールを吹っ飛ばすのが好きで(笑)。みんなに怒られていましたね。

当時は時間に余裕があったので、リハビリ仲間と一緒にプレーしていました。そのうち試合に出るようになったんですが、僕はどこか車いすテニスを軽く見ていたんだと思います。20歳くらいのころ、初めて大会に出場するときも、初級・中級・上級とクラス分けがありましたが、中級クラスで出場しました。体力があったこともあり、僕は「勝てるだろう」と高をくくっていました。でも、相手の技術レベルが高くて、僕はボールをまともに打ち返せなかったんです。結果は完敗。

その後、反省して、初級クラスから着実に成績を上げていこうと気持ちを切り替えて、練習に励むようになりました。

──いつから国際大会への出場を目指し始めたのですか。

菅野:車いすテニスを始めてから15年以上経ち、35歳のときでした。当時出場した大会で、日本車いすテニス界第一人者といわれる齋田悟司さんから「クァードクラスならパラリンピックへの出場を狙えるんじゃない?」とアドバイスをいただいたんです。それまでは趣味として仕事の合間に練習していただけでしたから、全く頭になかった選択肢でした。

クァードクラスに転向して本格的にパラリンピックへの出場を目指すとなると、障がいの度合いを認定する検査を受ける必要がありますし、当然、今まで以上の練習量をこなさなければなりません。大会に参加するための条件として、国際ランキングをあげるための海外遠征の莫大な費用もかかります。年齢のこともありますし、かなり悩みました。でも、今の実力から数年後の道筋がイメージできたので、頑張ればいけるかもしれないと思って挑戦することにしました。

──厳しいトレーニングに取り組む原動力はなんだったのでしょうか。

菅野:もちろん試合に勝ちたいという気持ちもありますが、一番大きな原動力は、支えてくれる人たちがいたことです。僕は、自分一人では何もできません。全豪オープンに参加するときも、一人だったら飛行機に乗ったり、エントリーの手続きをしたりすることができなかったかもしれない。妻やリクルート、スポンサーの皆さんが支えてくださるから、今の自分があります。だからこそ、みんなの期待に応えていきたいという気持ちが、自分を奮い立たせていますね。

──車いすテニスを通じて、印象深い出会いはありますか。

菅野:車いすテニスを始めてから、日本全国に知り合いが増えたので、どこに行っても声をかけられるようになりました。国際大会に出場するようになってからは、国内外の選手ともつながるようになりましたね。一つひとつの出会いが印象深く、大切です。

中でも、国枝慎吾選手や上地結衣選手という世界トッププレイヤーの存在はすごく大きかったです。身近にトッププレーヤーがいる環境は、レベルアップするための一番の近道になります。2人がいなかったら、僕はメダルを取れなかったかもしれません。

技術面はもちろんですが、精神面でも多くのことを教わりました。国際大会など、トップ選手が集まるレベルの高い大会に出場するようになると、勝ち続けることは難しくなってきます。選手たちのレベルが高いから、勝ったり負けたりするようになるんです。時には負ける方が多くなる。すると、メンタル的につらくなってくるわけです。

でも、2人は僕以上のプレッシャーを背負っているにもかかわらず、勝ち続けている。どのようにメンタルを維持すればいいのか、2人に話を聞いてもらったり、アドバイスをいただいたりしました。2人のおかげで、僕は、東京2020パラリンピック競技大会でも結果を残せたのだと思います。

さらに上を目指して挑戦し続ける

──今後、挑戦してみたいこと、やってみたいことはありますか。

菅野:昨年の東京2020パラリンピック競技大会では、混合ダブルスで銅メダルを獲得することができました。ここからさらに上を目指すことを考えると、競技との向き合い方を考え直さなければならないと思っています。年齢も40歳を超え、どこまで挑戦できるのか。難しいところに来ているなと感じます。

ただ、車いすテニスにもっと打ち込みたい気持ちは変わりませんし、2024年のパリ大会も目指そうと思っています。結果を出すためにどのような選択をするのがベストなのか、日々考えているところです。

──「2021年の出会い」と聞いて、思い浮かべることはありますか。

菅野:やはりパラリンピックは世界中の注目を集める大会ですから、応援してくれる人の存在を強く感じることが多かったです。メディアを通して僕の活動を知って、応援してくれる方がたくさんいらっしゃったようで、地元の人や、学生時代の同級生などに声をかけられることが多かったです。疎遠になっている方たちも多かったので、うれしかったですね。

──最後に、読者の皆さんや、応援している方々に向けてメッセージをお願いします。

菅野:今は2024年のパリパラリンピックに向けて練習に取り組んでいます。それまでの間にも多くの国際大会がありますから、一歩ずつ実績を積み重ねていきたいですね。

2018年のアジアパラ競技大会では、ダブルスでは優勝できましたが、シングルスでは準優勝だったので、まだ僕はアジア1位にはなれていません。直近の目標としては、「アジア1位」を達成したいです。

こうして着実に成績を上げていき、その結果として、パリでまた活躍したいと思っています。引き続き、応援をお願いいたします。

※肩書、担当業務などは取材当時(2022年2月)のものです。

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